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18年4月29日説教「サウロの召命」


聖書箇所: 使徒9:1~9
説教者: 永野健一

「サウロの召命」

 キリスト教の歴史において、イエス様以外の人間で、最も重要な人物を一人上げるとするなら、それはおそらく「パウロ」ではないかと思います。
 パウロのこの名前は、今日の聖書個所で示されているように、もともと「サウロ」という名前でありました。
聖書にはその経緯は書かれていませんが、恐らく、サウロの回心体験がその契機となったとみるのが自然でないかと思います。

 ところで、わたしはこれまで教会の記念誌と聖書の記述との比較を皆さんの前でやってきました。
なぜ、聖書と教会の記念誌との記述を比較するのかと言えば、基本的な事柄として、聖書も教会の記念誌もどちらも、何かしらのことを後世に伝えようという意図に基づいて書かれているからです。
 しかし、読んでみるとわかりますが、聖書と教会の記念誌とではかなり大きな違いが存在します。
それは何かと言えば、基本的に教会の記念誌において失敗談のようなものは載せず、むしろ、あれをやったこれをやったという自分たちの活動の記録として、表現を変えれば、自分たちの行った功績を残そうとする、そうした傾向があるのです。
もちろん、ここではそれが良い悪いという話ではありません。
 聖書では新約聖書にせよ、旧約聖書にせよ、そこに書かれているのはその昔生きていた信仰者の真実の姿であって、中には良いことも書いてはありますが、それ以上に、悪い事、失敗談が多く記されています。
 それはわたしたちが福音書を読むときに、十二使徒たちが活躍する話というのはほとんど出てきません。
むしろ、その多くはイエスさまの足を引っ張ったり、仲間内で争ったり、果てはイエスさまを見捨てて逃げるといった、およそ弟子にあるまじき行為の数々が記されているのです。そして、それは十二使徒たちだけに限りません。

 今日の聖書個所に登場するサウロ、後にパウロと呼ばれるようになったこの人物は、新約聖書に含まれる多くの文書を残した人物として、今日までのキリスト教において、非常に重要な役割を果たしました。
 しかし、だからと言って、そうしたパウロの武勇伝だけを新約聖書は伝えるのかというとそうではありません。
 パウロは自分がキリスト教会を迫害したという過去について、ガラテヤの信徒への手紙、コリントの信徒への手紙等で若干触れています。
しかし、それは自分の過去について触れる程度であまりそこに力点はありません。
 そういう意味では、パウロ自身にとって、キリスト者を迫害した過去は、既に復活の主イエス・キリストによって赦された事柄になるので、パウロは、そうした過去の自分について、まったく触れないことはないですが、しかし、だからと言ってその点をあまり強調することもなかったのです。

 しかし、使徒言行録では、パウロがその時その時、信仰を証しする場面において語られるのが、復活の主イエス・キリストを目撃したという事と、キリスト者を迫害する者であったという罪の告白なのです。
 しかも、使徒言行録では、パウロの手紙以上に、その中で3回にわたって、自分が復活の主イエス・キリストを目撃したことと、自分がキリスト者を迫害する者であったということを記しているのです。
 当然、それは使徒言行録がパウロについて、そのことを非常に重要な事として考えているからに他なりません。
 では、使徒言行録はなぜ、そこまでして使徒パウロの回心体験について記録を残したのでしょうか?
もちろん、この事の明確な答えは聖書には記されていません。

 ところで、教会の記念誌を読むとわかりますが、およそその教会に関わって大きな働きをなした牧師、あるいはその他の信徒について、あちこちの記念誌を見るとそこには牧師・信徒に関係なく、人間の業・人間の功績について多く記されていることを見ると思います。もちろん、わたしはそうした事が悪いと言っているのではありません。
 使徒言行録を記した人物が大切にしたこと、すなわちその編集方針、すなわち信仰告白において大切にしていることが何かと言えば、それは「人間の功績は載せない」という編集方針にあるのです。
 なぜなら、使徒言行録において最も大切なことは、聖霊の働きであり、聖霊の導きであるからです。初代教会からはじまって今日のわたしたちの教会に至るまで、そこには多くの人たちの労があり、功績があるのです。
しかし、それにも関わらず、使徒言行録を記した人物は、それらは全て聖霊によって導かれ、聖霊によって守られ、聖霊のご臨在のゆえに、今日あることを証しようとしているのです。
 だからこそ、使徒言行録はサウロが、パウロが、決して人間の努力によって、才能によって、神の為に多く働いたから、そうした功績が認められて使徒になったのではないことを証するのです。

 それは、わたしたちも同じです。わたしたちは誰もが神さまの憐みの故に、また聖霊の助け、働きによって今日キリスト者とされ、信仰者として生かされているのです。
そして、その事は、わたしたちに何かを為すということよりも、神の助け、働きに感謝しながら生活することの大切さを教えているのです。パウロはコリントの信徒への手紙2において次のように言っています。

 『すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。』(IIコリント12:9)

 弱さを誇るとは、わたしたちが自分の弱さを自覚しながら、あえて弱さの中に生きることを言っています。
それは行動するのではなくむしろ静まることであり、人に語ることよりも聖書のみ言葉に聞くことにあるのです。
 わたしたちが弱く、小さく、静かになるとき、反対に神は強く、大きく、わたしたちの目に大いなる働きをなされます。
その時、はじめてわたしたちはそうした神の働きの目撃者とされ、そしてそこから証し人になることができるのです。

 しかし、わたしたちが大いに努力し、行動し、声高らかに神のことを語ろうとする時、むしろ神の働きは失われ、ただ人間の功績だけが表にでてくるのです。だからこそ、使徒言行録を記した人物は、サウロに罪の告白を三度もさせたのです。
 わたしたちは自分の正しさを証ししようとする時に神から離れ、逆に罪を告白することを通じて神に近づくことができるのです。
なぜなら、わたしたちと神さまとの距離・関係を近づけてくださるのは、あくまでも神さまであるからです。

 だからこそ、パウロが告白したように、わたしたちは自分の努力によって証し人になるのではなく、むしろ自分の弱さ、罪深さを告白することを通じて、神さまの大いなる働きの中にあって、神の証し人にされることを祈って参りましょう。

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