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18年5月6日説教「異邦人に聖霊が注がれる」


聖書箇所: 使徒10:28~35
説教者: 永野健一

「異邦人に聖霊が注がれる」

  今日、キリスト教においてすべての人に聖霊が注がれるということは、極めて常識的な事として理解されています。
なぜなら、すべての人に聖霊が注がれるからこそ、わたしたちも信仰によって救われるのであって、仮に、聖霊の注ぎということが特定の人だけだということになると、本当の意味でわたしたちは救われたとは言えないからです。

 使徒言行録において、聖霊は、まさにイエスさまの召天後において、地上でキリストの体なる教会をうち立て、そして、今日に至るまで、キリスト教会がその信仰を維持し、継承することが可能であることも聖霊の働きによるものとして理解されます。
 そして、Ⅰコリント12:3において『また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです』とあるとおりです。
 イエス・キリストによる救いと今日のわたしたちを結びつける絆が、まさに聖霊であって、聖霊の存在がわたしたちの救いの根拠となり、その保証となり、そして将来にむかっての希望を約束するものなのです。
 その意味で、わたしたちの救い、また信仰は、聖霊の存在が大前提になっており、こうした今日の聖書個所を読むときに、聖霊の存在や働きが、わたしたちにとってはあたかも空気や水と同じであることから、かえってこうした聖書個所を読むうえで、聖書を記した人たちが経験した驚きや感動について、なかなか感じ取ることができないという事があるのです。

 さて、イエス・キリストの救いがただイスラエル民族だけではなく、全人類の救いであることは、ここにおられる皆さんは誰もがそうだとお思いのことだと思います。
 福音書を注意深く読むときに、イエスさまが十二使徒たちを派遣するにあたって、
「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない」(マタイ10:5)
と言われた言葉を、恐らく皆さんも聞いたことがあるのではないかと思います。
 ところが、同じマタイによる福音書で、これはナザレンの教団の標語になっていますが、
「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」(28:19)
と神の救いが、全人類を対象とされているという言葉を聞いたことがあると思います。

 マタイによる福音書で、イエスさまは最初、十二使徒たちにはユダヤ人だけに福音を宣べ伝えなさいと命じておいて、復活後においては全人類に福音を宣べ伝えなさいと、内容的に矛盾しているのですが、恐らく、この点について、皆さんは「イエスさまは最初の内はイスラエル民族を主に対象として宣教されたけれども、復活後、最終的に救いの対象がイスラエル民族から全人類へと広げられたのだろう」というように感じておられるのではないかと思います。
 また、ヨハネによる福音書4章を見ますと、イエスさまは、ここでは仕方なくサマリアを通り、シカルというサマリアの町にあるヤコブの井戸のところでサマリアの女性に出会うという、そうした内容をご存知だと思います。
 イエスさまはマタイによる福音書では十二使徒たちにサマリア人の町に入ってはならないと命令しておきながら、ヨハネによる福音書ではむしろ自分からサマリア人の町に入り、しかもサマリア人の女性に対して水を飲ませて欲しいとお願いする。

 わたしたちは、普段、あまりこうした物語の整合性についてまで踏み込んで読む機会がないので、「まあ、そんなところだろう」と思って、こうした点についてあまり疑問に思うこともなく、内容の不一致については目をつむって大雑把に内容を把握することが多いと思います。
 わたし自身、聖書を読みながら、よくよく読んでみると、今までの自分の聖書の読み方が大切なことを見落として、あるいは大切なことを無視して、勝手に解釈していることが多いなあと思う事がしばしばです。
 その意味で、今日の聖書個所にかえって、異邦人に聖霊が注がれるというこの出来事が一体、私たちの信仰においてどのような意味を持つのか、そのことを見ていきたいと思います。

 さて、今日の聖書個所は、使徒言行録10章1節以下にはじまるコルネリウスという、一人の異邦人についての物語の途中です。話としては10章全体にかかっていますので、また帰られてから全部を読んでみられると良いと思います。
 この聖書個所について、内容的にはあまり難しいことはありません。コルネリウスは異邦人でありながら、イスラエルの神を信じる信仰の篤い人物でありました。彼は、話の流れからして割礼を受けておらず、百人隊長ということですから、当然、皇帝に対して祀られた肉、言い方を変えれば偶像に備えられた肉を食べていたことでしょう。
 つまり、厳密な意味でユダヤ人にはなっていなかったけれども、しかし、普段の生活においては自分にできる範囲においてイスラエルの神を信じる、そうした信仰生活をしていた人物であったのです。
 ところが、ある時、コルネリウスは神の天使に相まみえ、コルネリウスの祈りが神に聞かれたこと、そしてペトロを家に招くように導かれたのです。
 その後、ペトロにも天使が現われ、ペトロはコルネリウスの家を訪ね、そこでイエス・キリストの福音を語ったところ、コルネリウスたちの上に聖霊が降ったのです。

 さて、このコルネリウスたち家族の上に聖霊が降ったとは、わたしたちにしてみれば、わたしたちもコルネリウスたちと同じ状況で救われているので、あまりそれが特別なことだとは感じません。
 しかし、ペトロたちからすれば、言い方を変えれば初代教会の人たちからすれば、きわめて信仰的に重大な出来事に遭遇したのです。
 それはどういう事かと言えば、ペンテコステの時に、使徒たちの上に聖霊が降ったとは、それはイスラエルにおいては信仰的に極めて当然の事柄でありました。なぜなら、ペトロをはじめとする使徒たちは、全員がユダヤ人であり、みな割礼を受けており、食物規定も守っていたからです。
 信仰的に清い人たちの上に約束の聖霊が降るとは、それは極めて常識的な出来事であり、それは起こるべくして起こった出来事であるのです。しかし、異邦人の上に聖霊が降ったとは、言い方を変えれば、それまでの信仰の常識が180度変わったことを意味するのです。

 それはどういう事かと言えば、コルネリウスをはじめその家族は、ユダヤ教の常識からすれば、異邦人であり、同時に罪びとでありました。もし、その救いに与りたいのであれば、割礼を受け、食物規定を厳守することを通じてはじめて救いの可能性を得る事ができるのです。
 ところが、コルネリウスは祈りこそしてはいたものの、割礼を受けることも、清い食べ物を食べることをも守っていません。言い方を変えれば、律法とは無関係に生活していたのです。
 しかし、そうした律法と無関係な人間に約束の聖霊が降るのであれば、それは、今までのエルサレム神殿を中心とした割礼や食物規定といったモーセの十戒や律法を守ることに何の意味があるのか、という事になってしまうのです。
 そして、ペトロたちはまさにその事を目撃したのです。これは初代教会の人たちにしてみれば極めて重大な信仰上の大事件でありました。もはや、エルサレム神殿も律法も関係なく、ただ主イエス・キリストの憐みによって聖霊を受け、救われるのであれば、自分たちが今まで守ってきた信仰というのはいったい何であったのか?

 そして、このコルネリウスの家族の上に聖霊が降ったというこの出来事の結果の上に、今日のわたしたちの信仰と救いが実現しているのです。だからこそ、これはキリスト教の信仰において極めて重大な事件であり、使徒言行録はこのことを一章まるまる使って証しているのです。
 今朝わたしたちは、ペンテコステを前にして、主の大いなる救いを覚えたいと思います。まさにこの聖霊によって今日のわたしたちの信仰生活が守られていると共に、この五井教会もまた守られていることを、主の御前に感謝しようではありませんか。

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