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18年5月13日説教「慰めの神」


聖書箇所: イザヤ66:13
説教者: 永野健一

「慰めの神」

 今日の聖書個所は旧約聖書のイザヤ書66章からということで、いつもと違う聖書個所になっていますが、これはナザレン教団の発行している『希望』誌で、今日が「母の日」であることに由来しています。
 ただ、このイザヤ書66章が「母の愛」をテーマにしているかというとそうではないため、わたしの説教では、あくまでも旧約聖書のイザヤ書66章が言わんとしている事柄から、今日の聖書個所のみ言葉についての話をさせていただきます。

 さて、旧約聖書のイザヤ書はエレミヤ書と並んで、イスラエルの民に対する神の言葉を書き記した預言書として、皆さんもそのみ言葉に触れたことがあるのではないかと思います。
 旧約聖書を読むうえで、わたしたちがなかなか読みにくいと感じる理由のひとつに、こうした預言書に見る黙示的で難解な文章であるという事があげられると思います。
 しかし、そうした読むのになかなか難解ではありますが、ポイントを押さえて読み進める時に、実は、預言書というのはそんなに難しいことを言っているのではなく、極めて現実的であり、信仰者にとってとても大切なことを言っていることが理解できるのです。

 そして、そうした預言書が読めるようになってくると、次に理解しやすくなるのが、実は、新約聖書の福音書であるのです。
 なぜ、そういう事が言えるのかと言いますと、実は、イザヤ書・エレミヤ書が書かれた時代においてイスラエルの人々が直面している信仰的な問題と、イエスさまが生きておられた時代においてイスラエルの人々が直面している信仰的な問題とは、具体的な個々の点においては違いがありますが、問題の本質においては極めて同じことを主張しているからです。
 旧約聖書の預言書が人間の罪として提示しているのは、端的に言えば信仰者による偶像崇拝の罪です。そして、その罪の結果としてイスラエルは滅びたことを証しているのです。

 当時の人々は資本主義的な社会の中にあって貧富の差が激しくなっており、その中で信仰は形骸化しました。
 しかし、表面的にはエルサレム神殿においては多くの人々が我先にと神殿に参り、多くの動物のいけにえ、また献金がささげられたのです。
 人々はより神さまの栄光に近づこう、より神さまの栄光が大きくなるように、極めて積極的に奉仕をし、その結果として極めて偉大な神殿が造り上げられ、その祭儀も極めて荘厳なものとなっていきました。
 そして、預言者イザヤは、まさにそうしたイスラエルが繁栄の絶頂にあるともいえるような時代に、神の御手によるイスラエルの滅亡を預言したのです。当然、そのような時代において、預言者イザヤの言葉に耳を傾ける者はいなかったと思います。しかし、その後、イスラエルは歴史上から、また地図上から消滅したのです。

 マルコによる福音書に次のような箇所があります。
 『イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言った。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」 イエスは言われた。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」』(マルコ13:1~2)
 この箇所において、弟子たちは当時のエルサレム神殿がすばらしい石を組み上げ、それによって素直に「なんとすばらしい建物でしょう」と驚嘆するほどに、これほどのすばらしい神殿がこの世界に他にあるでしょうかと、エルサレム神殿の壮麗さを称えたのです。

 ところが、イエスさまから返ってきた言葉はそれと全く異なるものでした。
 それは「一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」と、要はエルサレム神殿は跡形もなく完全に破壊されます、ということを言われたのです。
 わたしたちナザレン教会はきよめの教会であって、信仰において、より神さまに近づくことを旨としています。
 しかし、ここには信仰者の陥りやすい大きな落とし穴があり、イザヤ書も福音書のイエスさまの言葉も、すなわち共通してこの問題を扱っているのです。

 さて、「信仰において、より神さまに近づこう」ということは、恐らくわたしたちにとって、それが人間の罪であると言われても、恐らくピンとこないのではないかと思います。
 なぜなら、イエスさまの示された主は、まさにインマヌエルの神であり、それはわたしたちと共にいてくださる神であると、神さまとわたしたちとの関係の近さをもって福音としているからです。

 しかし、問題は、その近さは「一体何によって実現しているか?」という事にあるのです。
 旧約聖書に記されたイスラエルの人たちが、なぜ何度も繰り返し神さまに対して罪を犯すのでしょうか? それはイスラエル民族が民族として熟慮が足らず愚かだからということでしょうか? 決して、そうではありません。
 神を信じる信仰には、信仰者がより熱心に神さまに近づこうとすればするほど、むしろ神から遠ざかってしまうという逆説的なものなのです。

 イスラエルの人たちも、今日のわたしたちも信仰者として、「より神さまに喜んでいただこう」、あるいは「より神さまを心から礼拝できるようになろう」と、神さまの御前において、より神さまが神さまとして正しく、しかも聖なるお方として礼拝されるよう努力します。
 もちろん、そのように考えること自体が間違っているわけではありません。
 しかし、そこにおいて極めて重要であり、案外見落としてしまう信仰理解が、すなわち「信仰とは人間の能力・才能、努力によるものではなく、全てが神さまの憐みによるもので、恵みとして与えられるものだ」という事なのです。

 わたしたちは、わたしたちの神さまに対する信仰の状態を一体何によってはかることができるでしょうか?
 個人の救いとは、極めて難しいもので、それを客観化することができません。そのため、わたしたちは経験的に、そうした抽象的で把握しにくいものを客観化するために、数量化という手段を用いるのです。

 具体的に言えば、「今年は何人救われましたか?」というようなことです。あるいは「礼拝における出席者」「献金の額」ということでもよいでしょう。
 長年、わたしたちはそうした数量化による客観化に慣れてしまっていて、そこに罪の落とし穴があるということはあまり意識しないのです。そして、それが預言者イザヤの時代、またイエスさまの時代において、資本主義的な社会の在り方も加わって、加速度的に進んだのです。 

 「母がその子を慰めるように/わたしはあなたたちを慰める。エルサレムであなたたちは慰めを受ける。」(イザヤ66:13)
 母が子を愛するのは、自分が老いた時に面倒をみてもらうための、その先行投資として愛を注ぐのでしょうか?
 今は複雑な時代ですから、ひょっとするとそう答える方もあるかもしれません。

 しかし、大切なのは、神さまのわたしたちに対する愛がそうした打算的なものでは決してないという事です。
 神さまは、神さまの御心としてわたしたちを愛し、この教会を愛してくださるのであって、それはわたしたちの努力や能力に依存するものではありません。しかし、わたしたちあるいは教会は、あたかも自分たちが信仰的に頑張れば、必ず神さまがより大きなこの世的な豊かさを与えてくれるものだと勝手に思い込んでいるところに、まさに信仰の落とし穴があるのです。
 そのため、主の祝福は、単純に、「信仰によって幸福が増え、不幸が減る」ということではありません。そうではなく、主が共におられるわたしたちの生涯は、幸福な時も、不幸の時も、そのすべてが神との祝福の時であり、また神が共に居られるという、わたしたちにとってかけがえのない人生であることを示しているのです。
 その意味で、わたしたちにとっての真の不幸は、そうした幸福・不幸ではなく、神さまを見失った状態を言うのです。

 しかし、たとえ、わたしたちが神さまを見失ったとしても、神さまはわたしたちを見捨てることなく、決して孤児にもされない方であることをわたしたちは福音として聞いたのです。
 だからこそ、わたしたちはそのように、ご自身から、御心においてわたしたちに近づいてくださる主に心から感謝しようではありませんか。

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