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18年5月20日説教「聖霊なる神の恵み」


聖書箇所: 使徒2:1~13
説教者: 永野健一

「聖霊なる神の恵み」

 今日はキリスト教の暦でペンテコステです。聖霊が使徒たちの上に下り、まさにその事によってキリストの教会が始まったわけです。
 使徒言行録はそうした弟子たちの上に聖霊が降ったという物語を大きく二つ載せています。それは前々回でしたか、使徒言行録10章における異邦人コルネリウスとその家族の上に聖霊が降ったという物語、そして、もう一つが今日の聖書個所であるペンテコステの出来事の箇所です。
 では、このペンテコステの出来事とはわたしたちにとってどのような意味をもつのでしょうか?

 今日の聖書個所である使徒言行録2章1節以下はそのことをわたしたちに伝えているのですが、まず、第一に、「五旬祭の日が来て」とあります。五旬祭とはもともとイスラエルにおける農業祭で、春の小麦の収穫を神に対して感謝をささげる祭でした。
 しかし、キリスト教会は、まさにこのペンテコステの出来事において、それまでのイスラエルにおける農業祭であったものを、キリスト教会の始まりを記念する重要な出来事と位置づけたのです。
 もちろん、それを実現したのは聖霊の働きであって、この聖霊の働きがキリスト教会の始まりの根底を支えるものであって、当時のキリスト者と、今日のわたしたちとを結びつける重要な絆であるのです。

 さて、今日わたしたちは、神と会衆との御前において信仰告白を行うことを通じて、キリスト者とされるわけですが、そもそも十二使徒たちは、イエスさまが生前において、イエスさまによって直接的に使徒と召されることによって使徒となった人たちでした。
 そういう意味では、この十二使徒たちの信仰とわたしたちの信仰とを比較する時に、実は、違いがあることがわかります。

 十二使徒たちのほとんどは生前のイエスさまによって弟子とされた人たちであり、そういう意味では、わたしたちの誰もが直接イエスさまに会ったこともなければ、復活のイエスさまの顔を見たわけでもありません。
 つまり、わたしたちと新約聖書の福音書に出てくる十二使徒たちとは決定的に断絶があるのです。
 それはただイエスさまがどうこうという以前に、イエスさまをはじめとする十二使徒たちが生きていた時代と場所は、今のわたしたちからすれば2000年も前の出来事であり、また場所も日本ではなく、日本から遠く離れたイスラエルの地でありました。
 その意味で、今日のわたしたちは、直接的にイエスさまがわたしたちに現れてくださらない限りは、救われる余地はどこにもなかったのです。

 しかし、本来的には、イエスさまと全く何の関係もない存在である、現代に生きるわたしたちが、なぜイエスさまの救いに与ることが可能であるのか? それは誰にとっても大いなる不思議であります。
 しかも、イエスさまはその十字架と復活の出来事を通じて、全ての人の救いを既に完成されたわけです。
 しかし、多くの人がそのように言われてまず戸惑うのは、「それが、わたしと一体何の関係があるのですか?」ということです。

 恐らくみなさんが普段の生活の中で教会に人を誘おうとする時に言われるであろう言葉として、「キリスト教はわたしとは関係ありません」ということを言われるのではないかと思います。あるいは、「うちは仏教です。キリスト教は外国の宗教じゃないですか?」というような事を聞くこともあるのではないかと思います。
 主イエス・キリストの福音を最初に聞いた全ての人が口にする言葉は、恐らく、「それがわたしと何の関係があるのですか?」という言葉ではないでしょうか。
 それは日本人であるとか日本人でないとか、たとえばアメリカ人であるとか、人種といったことは全く問題ではありません。
 そうではなく、自分では救いを求めていないにも関わらず、「あなたは救われた」と言われる、そこにある「なぜ、そうなるのか?」ということが問題となっているのです。

 十二使徒たちは、そもそも、彼らが希望して主イエス・キリストの使徒に立候補して、採用されたわけではありません。
 十二使徒たちが十二使徒とされたのは、まさにイエスさまの選びによるものであって、もちろん、十二使徒たちに、それを拒否することも可能であったと思います。
 事実、十二使徒たちはイエスさまが逮捕された時、イエスさまと一緒に逮捕された人物はおらず、全員がイエスさまを見捨てて逃げたのです。
 イエスさまを見殺しにしておいて、イエスさまが復活されたからと言って、喜んでイエスさまの前に、「復活できてよかったですね」と再び顔を出すことができるでしょうか?
 しかし、復活のイエスさまは、そうした十二使徒たちに対して、決して、そうした失態に対する責任を果たせとか、償いをせよとは言われませんでした。しかも、そうした十二使徒たちの上に、約束の聖霊が注がれたのです。

 だからこそ、この聖霊の注ぎは、決して、主イエス・キリストの弟子としての働きや在り方が問われるのでなく、また男性・女性の区別なく、また大人と子どもの区別もありません。健康な人、病気がちの人、その他のあらゆるハンディキャップを負っているかいないか、そうしたことは一切関係ありません。
 むしろ、この聖霊の注ぎをもって、そうしたすべての人が、神のみ前において一個の人間とされるのです。そこに、聖霊の働きのもっとも重要な働きがあるのです。

 ともするとわたしたちは、「聖霊の実」で説明される現象や能力のようなものに目を奪われてしまうことが多くあります。
 たとえば聖霊の注ぎによってわたしが異言を語ったとしても、それによって救われるわけではありません。あくまでも、こうした現象として、わたしたちの前に現れるものは、聖霊が今も生きて働かれていることを示しているだけで、それ以上の意味があるわけではありません。
 そうではなく、この聖霊の働きがなければ、わたしたちは主イエス・キリストとの関わりに入ることできず、当然、その救いに与ることも、その救いを聞くこともなかったのです。

 しかし、今や、この2000年を越えて、聖霊は今日においても主イエス・キリストの福音が確かなものであることを証しし、加えて、わたしたちの人生が、まさに主イエス・キリストと共にある人生であることを保証してくれているのです。
 聖霊が存在しなければ、おそらく、多くの人が感じているように、わたしたちもまた「それがわたしと何の関係があるのですか?」と答えることでしょう。

 しかし、今や、わたしたちは、主イエス・キリストの福音を知り、この聖霊によって、わたしたちはこの世において、真に人間とされている事実を、驚きをもって感謝すると共に、聖霊による神とわたしたちとの絆、その結びつきの強さに、わたしたちは大いに慰められ、励まされるのです。
 それはパウロがローマの信徒への手紙において次のように証ししているとおりです。
 「高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:39)

 神がわたしたちを愛し、その愛の徴として、神の独り子である主イエス・キリストを送ってくださり、その十字架と復活の出来事を通じて、わたしたちは、神との間に和解を得て、今日、一個の人間として生きることを得させていただいているのです。
 世の中には色々な言葉があります。中には人を傷つけ、また人を死に追いやる言葉すらあるわけですが、しかし、神の言葉はそうではなく、よって立つ土台を持たないわたしたちに対して、人間として生きるための土台となり、支えとなり、力となってくださっているのです。
 そして、そのすべては聖霊の働きによって実現しています。だからこそ、わたしたちは、このペンテコステの出来事を覚え、今日においてなお生きて働かれている大いなる主の御名を賛美し、感謝をささげるのです。

 これこそがわたしたちがキリスト者であることの根拠であり、そしてまた、この世においてキリスト者として生きる指針であり、希望なのです。
 今朝わたしたちは、主がまさに約束の聖霊を使徒たちの上に送ってくださったように、今日においてもなお、聖霊を送り、働かれていることを覚え感謝しようではありませんか。

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