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18年6月10日説教「聖霊の導き」


聖書箇所:使徒13:1~3
説教者:永野健一

「聖霊の導き」

 今日の聖書個所は、ちょうどバルナバとサウロ、すなわち後のパウロがアンティオキア教会から派遣されて第一回目となる宣教旅行に出るその経緯を記した箇所となっています。
 さて、パウロはその生涯において三回の宣教旅行を行います。ただし、この三回の宣教旅行が何を目的としたものであって、どういう内容であったのかについては、あまりわたしたちは記憶していないのではないかと思います。
 なぜなら、使徒言行録についての多くの説教は、あまりそうした細かいことは重要な内容ではなく、むしろ、パウロの宣教旅行は、キリスト教の歴史における福音宣教の成功の証しとして単純化されてしまい、「福音の拡大」という言葉によって、細かな内容を省略されてしまうことが多いからです。

 「福音宣教」とはキリスト教会においては、いわばキリスト教会の存在目的であり、またそのために良く引用されるのが、マタイ28章に出てくる「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」(マタイ28:19)というイエスさまの大宣教命令とも言われるみ言葉です。
 およそ、わたしたちは、その言葉がまさにイエスさまが言われた言葉として信じ、そこに何の疑いを持つこともなく、それがキリスト教会にとっての存立の根拠であると考えるのですが、実は、そうしたことを訴えるみ言葉というのは、『聖書』ではごく限られているのです。
 たとえば、イエス・キリストの十字架と復活については、新約聖書に含まれる福音書のすべてに記述があります。この事が示すのは、まさにそれがキリスト教信仰を伝えるために必須の事柄であるからです。だからこそ、福音書には必ず十字架と復活という出来事が記されているのです。

 ところが、福音書には、その福音書にしか示されていない内容というのがあります。先ほどの大宣教命令がその一つの例です。イエスさまによる大宣教命令を記しているのはマタイによる福音書だけであって、他の福音書には出てきません。
 つまり、他の福音書に書かれていないということは、大宣教命令はあくまでもマタイによる福音書における一つの信仰告白であって、そうした大宣教命令という信仰について、他の福音書は異なる見解を持っているという事でもあるのです。

 使徒言行録を「聖霊行伝である」という言い方がありますが、実は、それは使徒言行録の本質において的を射た言い方です。今日の聖書個所にも何人かの人物が登場しますが、実は、そうした人物の働き、あるいは手柄を使徒言行録は手前に出しません。
 十二使徒やパウロといったキリスト教において偉大な先人がいて、もちろん、聖書に名前が登場しない多くの先人の働きがあって、今日のわたしたちの信仰があるのですが、使徒言行録はそうした、人物名を登場させることはありますが、そうした「人物・偉人による働きのおかげである」とは書きません。
 もちろん、そのように記述することはいくらでも可能であるのです。しかし、使徒言行録はそうはしませんでした。つまり、「そのように記述しない」という信仰告白に基づいて記されたからです。

 さて、今日の聖書個所には何人かの人物名が紹介されています。
 歴史上、最初にキリスト者と呼ばれる人たちの集った最初のキリスト教会がこのアンティオキア教会でありました。しかし、アンティオキア教会といっても、たとえばわたしたちの五井教会のように、ひとつの教会という建物が存在していたわけではありません。
 新約聖書に登場するこうした「教会」と呼ばれるものは、今日のわたしたちで言えば一つ一つの家庭集会の集合体を指してアンティオキア教会というふうに言っているのです。
 そういう意味では、アンティオキア教会と言っても、実は、複数の家庭集会の集合体であって、そこには主にユダヤ人が集まる集会もあれば、中にはそうではない異邦人が集まる集会もあったのです。

 わたしたちは既に、使徒言行録11章19節以下において、ステファノの事件によって散らされたエルサレム教会の人たちがアンティオキアにまで迫害を逃れたということを見ました。使徒言行録11章19節では、そうした人たちが「ユダヤ人以外のだれにもみ言葉を語らなかった」と記されているとおりです。
 ところが、そうしたアンティオキア教会の中には、実は、そうしたユダヤ人だけではなく、その直後の20節では、キプロス島やキレネから来たギリシア語を話す人たちがギリシア語を母国語とする異邦人たちにイエス・キリストの福音を語ったことが記されていました。
 つまり、アンティオキア教会は大きくは二種類の信徒から構成されており、それは純粋にユダヤ人である人と、ローマ社会の中において生まれた離散のユダヤ人、あるいは、いわゆる完全に異邦人という人たちも含まれていたのです。

 今日の聖書個所では、そうした純粋なユダヤ人ではなく、むしろ、ローマ社会においてギリシア語で福音を異邦人に伝えた代表的な人物が紹介されているのです。
 また、この名前の紹介の順番も意味を持っています。
 つまり、アンティオキア教会において、福音宣教にもっとも権威を持った人物がバルナバであり、彼が、異邦人に対する福音宣教の責任者を務めていたのです。

 そして、その次に紹介されるのが兄弟たちからニゲルと呼ばれたシメオンです。実は、この「ニゲル」とは英語でいう「ニグロ」という言葉で、黒人を指す言葉であったのです。当然、彼の出身地は中近東というよりもアフリカ大陸であり、そうした人物までアンティオキア教会には居て、しかもバルナバの次の権威者として存在したのです。

 そして、キレネ人のルキオですが、アフリカ大陸北岸、地中海に面する町にキレネという場所がありますが、実は、このキレネも異邦人宣教においては重要な拠点であったことがうかがえます。そのことは、以前も少し触れましたが、マルコ福音書においてイエスさまの十字架を担いだ人物として「アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人」(マルコ15:21)に紹介されています。もちろん、この人物もキリスト教にゆかりのある人物であったのでしょう。

 そして四人目が、領主ヘロデと一緒に育ったマナエンであり、この「領主ヘロデ」とは、ちょうど使徒言行録12章に登場するヘロデ・アグリッパ一世の事で、そうした人物に近い人物までもがこのアンティオキア教会には居たということなのです。

 そして、最後に登場するのが、サウロであり、わたしたちがパウロと言っているその人物です。

 その意味で、「パウロの宣教旅行」とは言いますが、必ずしもパウロが先頭を切って宣教旅行を企画し、実施したということではなく、パウロとバルナバが宣教旅行に導かれたのは、あくまでも聖霊の導きであって、主イエス・キリストの例が先にダマスコに住む弟子のアナニアに対して示したように、主の御心として二人は教会から送り出されたのです。
 だからこそ、福音宣教とは、聖霊の導きによらなければ、わたしたち人間の思惑で行うものではないという事が実に重要なのです。

 人間が人間の手でそうした共同体を作り上げる事は可能です。そうしたサークル活動やグループをわたしたちは幾らでも知っています。
 しかし、聖霊によって導かれたものは唯一、キリストの教会だけなのです。
 主イエス・キリストの霊によって導かれた信仰共同体こそが「教会」という名称を語ることができるのです。そうでなければ、それはただ人間の手による「偽りの教会」と言わざるを得ません。

 わたしたちの教会は、はたして聖霊の導きによる教会となるか、それとも偽りの教会となるのか、それはまさにわたしたちの祈りと、そして聖霊の導きを、待つ事にかかっていると思います。
 その意味で、福音宣教において大事なこととして使徒言行録が伝えるのは、まさに聖霊の導きにあるのです。それは言い方を返れば、聖霊の導きを待つことでもあります。

 わたしたちは多くの場合、自発的に行動することが善であると、祈って待つことよりも行動することの方を好みます。なぜなら、行動はある種の達成感をもたらしてくれるからです。
 しかし、主の恵みや祝福はそうした人間の手による達成感と比較できるようなものではありません。主の恵みや祝福において際立っているのは、わたしたちの思いを越える不思議であり、驚きであり、またわたしたちの魂を震わせる感動です。
 わたしたちは一時的な達成感や満足感に浸る事に慣れてはいけません。そうではなく、まさに主の御業を目撃し、証しすることが、わたしたちのキリスト者としての本分であるのです。

 今朝、わたしたちはそうしたわたしたちの上に働かれる聖霊の導きを祈り、待つものとして、わたしたちの日常生活において働かれる主の大いなる御業のひとつひとつを数え、心から賛美しようではありませんか。

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