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5月6日 合同礼拝


2018年5月6日 10:00~11:30
復活後第5主日
合同・公同礼拝

聖書:使徒 10章28-35節
説教:異邦人に聖霊が注がれる

18年4月22日説教「一人の高官の救い」


聖書箇所: 使徒8:26~40
説教者: 永野健一


 イエス・キリストの召天後、エルサレムにいた使徒たちに約束の聖霊が降り、それによってキリスト教会の始まりを見ました。
 それは、歴史におけるキリスト教会が、自分たちの信仰告白として、最終的にそのような信仰告白に至ったということであって、そのことは、わたしたちの教会においても同様に重要です。
 キリスト教会は、十二使徒たちに始まる、信仰継承によって今日まで続いてきたわけですが、この信仰継承とは、すなわち血縁関係やそういったものとは関係なく、まさに聖霊の働きによって、聖霊の導きによってなされたものであるのです。
 それは、たとえ親子の関係において信仰が継承された場合であっても、決して、それが良いクリスチャン家庭であるということではなく、あくまでも、聖霊の導きによる使徒継承であるという点が大切なのです。
 だからこそ、それは人間の働き、奉仕によって継承されるものでなく、ただ主イエス・キリストを礼拝する、その一点を通じて、わたしたちが主イエス・キリストに結び付き、主の大いなる憐みによってわたしたちが信仰へと導かれる、そうした神の導きによって導かれるものであるのです。
 使徒言行録、そういう意味で、聖霊の導き、聖霊の働きということを前面に出して、決して使徒たちや弟子たちの働きの故であったとは記しません。もちろん、それは使徒たちや弟子たちが何もしなかったということではなく、何よりも大切なのは、聖霊の働きと導きによって教会が成長し、守られたという点なのです。

 さて、そうしたことを踏まえておいて、今日の聖書個所は、十二使徒たちによって按手を受けたステファノたち七名の内の一人に数えられた弟子フィリポについての物語です。
 使徒言行録6章・7章のところで、ステファノについて、彼が初代教会における第二世代の弟子であり、その第二世代の弟子の筆頭であったステファノが殉教したことが報告されています。
 そして、使徒言行録では、このステファノの殉教の出来事と時を同じくして、キリスト教徒に対する大迫害が起こったことを報告しています。そして、キリスト教徒に対する大迫害に加担した、自分をファリサイ派の中のファリサイ派であると自認するサウロ、すなわち後のパウロが登場するのです。

 そして、ステファノの殉教の次に使徒言行録が記しているのが、使徒言行録6章でステファノの次に名前が紹介されているフィリポです。先に、ステファノの名前について「王冠を戴いた者」「栄光を受けたもの」という意味があることをお話しさせていただきました。
 聖書に登場するこうした名前は、いわゆるわたしたちの持つ固有名というよりも、その名前の言葉が持つ象徴的な意味があることを説明しました。その意味で、ステファノ、あるいはパウロやペトロもそうですが、こうした使徒や弟子たちの名前は、あるいみあだ名であって、教会の中において通用するニックネームのようなものであるのです。

 では、フィリポという名前はどういう意味があるかと言うと、「馬を好む者」という意味があります。つまり、ひらたく言えば「馬好き」という事になりますが、キリストの弟子で馬が好きだとは、ちょっと意味が分かりません。
 つまり、「馬好きとは馬そのものが好きな人」ということではなく、それは優れた馬が一日に千里を走るという言葉があるように、フィリポはその足を活かして遠くまで福音宣教を行った弟子であるということを示しているのです。もちろん、彼が弟子としてはじめて福音宣教のために馬に乗って移動した、最初の福音宣教者であったという、そういう可能性もあるかと思います。
 当然、そうしたフィリポの活躍があって後はじめて他の弟子たちから「彼はまさにフィリポだ」と呼ばれるようになったということであって、最初から「フィリポ」という名前ではないということなのです。
 そして、そのフィリポをフィリポと言わしめるそうした彼の活躍を記録したのが、この使徒言行録8章におけるフィリポがサマリアとエチオピアの高官に対して宣教を行った物語なのです。

 さて、今日の聖書個所において、一人の宦官が登場します。
 このフィリポの一人の宦官に対する宣教の物語は、いったい何を全体としてわたしたちに伝えようとしているのでしょうか? もちろん、それはフィリポがフィリポと呼ばれるようになったその理由を説明する物語であることは確かなのですが、ただそれだけということではありません。
 今日の聖書個所のところでこの宦官は「エルサレムに礼拝に来て、帰る途中であった。」と書かれています。ここで皆さんに質問ですが、この宦官は礼拝を守ることができたのでしょうか? それともできなかったのでしょうか?
 当然、可能性としては二通りの解釈が可能ですが、「礼拝を守る事ができた」として物語を読み進めると、なぜ宦官がイザヤ書を読んでいたのか、その理由が良く分からないということになります。
 では、逆に、礼拝を守る事ができず、門前払いを受けて帰ってくる途中であったというのであれば、どうでしょうか? そうするとこの物語は非常にスッキリと読めることになります。

 すなわち、彼は、イスラエル人からすれば外国人でありましたが、聖書を読み、神を信じて、宦官である自分自身の救いのために神を礼拝しようと遠路はるばるエチオピアからエルサレムにやってきたのでした。
 ところが、外国人であり、また宦官である彼は、去勢された関係で割礼を受けることができません。当時としてみれば、外国人であることもさることながら、割礼を受けることができず、しかも去勢された体であるという、つまり、しょうがい者であるという理由によって神を礼拝することができず、失意の中に、わざわざ寂しい道を通って自分の家に帰っていくところであったのです。
 当然、彼が読んでいたイザヤ書の内容は、なぜ、自分が心で神を信じているにも関わらず神を礼拝することができず、しかも宦官であるという、今日的な言い方をすれば障がいであるという理由で信仰を否定されなければならないのか、というものであったことは想像に難くありません。
 イザヤ書に記されている言葉を、自分はまさにエルサレム神殿に神を礼拝しに行ったけれども、「卑しめられて、その裁きも行われず」、すなわち、ただ宦官であるという理由だけで、人間以下の存在として扱われ、礼拝どころか門前払いされて帰る途上にあり、自分はこのまま救われることなく、ただ死んでいくだけの人間なのかと、み言葉を解釈したのです。

 しかし、まさにこの絶望にあった宦官に対して、聖霊はフィリポを遣わしたのです。
 フィリポは、宦官が朗読していたイザヤ書のみ言葉を、「これはあなたのことを預言したものではなく、自分たちが信じるところの主イエス・キリストを預言したものだ」と説明したのです。
 そして、二人は、エルサレム神殿ではない、ただ「水のあるところ」で洗礼式を行い、この宦官はキリスト者へと、すなわち律法においては人間以下の存在として扱われた人間が、今や神の大いなる憐みにより、聖霊の導きと働きによって、今や神を礼拝するものへと変えられたのです。

 その意味で、この物語は、わたしたちの礼拝がただ神を礼拝する儀式であることを証しする以上に、礼拝とは、この礼拝を守るという事によって、人種や性別の違いも関係なく、大人も子どもも関係なく、健常者も障がい者も病気のあるなしに関係なく、神の御前においてすべての人が神の御前において一人の人間であり、愛する兄弟姉妹になるという福音を伝えようとしているのです。
 その意味で、礼拝は、大人だから子どもだからということではなく、また健常者だから障がい者だからといった、わたしたちの思いをはるかに超えた神の愛を示しています。
 礼拝式はわたしたちにとって週ごとのキリスト教の儀式に過ぎないかもしれません。しかし、今日の聖書個所が伝えようとしている福音は、まさに礼拝によって、わたしたちひとりひとりが神の御前に人間とされる大いなる神の御業であるのです。
 今日わたしたちは、まさに聖霊の導きによって一人の宦官が救いへと導かれたことを覚えたいと思います。そして、わたしたちはこの礼拝にある神さまの大いなる御業を覚えたいと思います。


4月29日 伝道礼拝


2018年4月29日 10:30~11:30
復活後第4主日
伝道礼拝

聖書:詩編 51章1-21節
説教:人を憐れむ神

礼拝後…牛久集会、(CS奉仕者会)

4月22日 主日礼拝


2018年4月22日 10:30~11:30
復活後第3主日

聖書:使徒 8章26-40節
説教:一人の宦官の救い

礼拝後…(教会総会:午後)

4月15日 主日礼拝


2018年4月15日 10:30~11:30
復活後第2主日

聖書:使徒 6章8-15節
説教:ステファノ

礼拝後…(永野牧師就任式:午後)